◆財務モデル(ファイナンシャルモデル)とは、貸借対照表、損益計算書、キャッシュフロー計算書、株主資本変動計算書の財務4表が、重要な前提条件(パラメータ)を変更すれば瞬時に自動計算され、将来期間の財務数値が会計ルールと整合的にシミュレーションできる表計算ソフトのファイル(または計算プログラム)を指す。経営者の意思決定を財務モデルに反映し、最終的な事業計画書を策定する際に利用される。

◆複数の前提条件を用意しておき、各前提条件を「シナリオ」とすることで、シナリオを切り替えれば瞬時に将来期間の財務数値が再シミュレーションされるように構築しておくと、複数の買主候補との同時交渉の場面等で有益である。

◆財務モデルは、売主にとっては、売却可能額の予測、重要性の高い開示情報の選別とその整合性を確保するために、買主にとっては、シナジー効果やPMIコストなどを加味した上での対象企業の株式価値を評価し、取引価格や各種条件を吟味するために利用される。
◆財務DD、税務DD、法務DD、人事DD、IT DDやESG DD(バイサイドDD)の重要な発見事項は金額化(場合によって発生確率を加味した期待値化)され、過去、現在から将来につながる売上、費用、利益、キャッシュフロー、運転資本・固定資産投資、資金調達や税金などのシミュレーションに反映される。この作業はDDレポートを受領する買主にしかできない作業である。この負担は大きく、買主にわかりやすい財務モデルファイルを開示すれば、シナジー効果やDD発見事項を考慮した事業計画数値の策定業務を大幅に省力化でき、手間やコストを軽減できる。結果として、売主にとって交渉上有利となりやすい。売主にとって買主はある意味「お客様」である。ベネフィットを具体的にイメージしてもらい、リスクや維持コストを減らしてあげるから、高めの値段でもベネフィットが上回るので「商品(対象企業の経営権)」を買ってくれるのである。だから欠陥を事前治癒する売却準備や、丁寧でわかりやすい情報開示が重要なのである。
◆注意すべきは、M&A交渉は時間がかかるという点である。つまり、確定値が修正値に洗い替えられたり、着地見通しや計画値が確定値になる。特に、会社を高く売りたいからといって過度に楽観的な着地見通しや計画値を開示すると、確定値が冴えない数値となれば、買主からの信頼性を著しく棄損してしまう。特に近い将来の数値は確実に達成可能な数値にしておくとともに、M&A交渉に入ったら必死に数字を作ることが重要である。必死に数字を作ることに罪悪感を持つべきではない。IPOに臨む経営者も全く同じ事をしている。むしろ、悪戦苦闘の中で新発見が得られる機会でもあり、買主にとっても非常に有益である。
◆また、M&Aスキームが会社丸ごとの株式譲渡、株式交換、株式移転や株式交付であればファイナンシャルモデルはシンプルでよいが、会社分割や事業譲渡など、会社の一部を切り取る場合には、試算値での将来計画が必要不可欠である。スタンドアローンコストの考慮も必要になろう。また、すでに撤退した事業(非継続事業)があって、過去の確定値が撤退事業を含む場合も、継続事業のみベースの試算値(非継続事業を除いた数値)が必要である。
◆さらに、中小会計要領などの簡易的な会計基準を採用している場合、財務諸表に反映すべき要素が抜け落ちている可能性がある。(簡易的だとしても)セルサイドDD(内部調査目的)を実施することで不足要素を把握し、買主に課題を開示しておけば、買主からの信頼性を高めることができる。DDプロバイダーにネガティブ要素を発見され、厳しいディスカウントを要求されることも避けられる。透明性のある開示をした方が、結局、売主にとってプラスになる。
【Plus】財務モデルの副産物
財務モデルを精緻に策定すると、過去の確定値に含まれる調整額(実力との差異)を発見し検証でき、改善やシナジー候補も発見できる。必要性に応じ、収益モデル、費用モデルや投資モデル等と組み合わせると精緻なモデルが完成する。簡易な財務モデルでは、例えば売上高の成長率をたいした根拠もなく年+1%等と置く。それでは説得力はない。財務モデルは、有益なツールだが、複雑な構造が含まれ、事業に関する幅広い知識、会計・税務等の専門知識、データ分析、表計算ソフトスキルやプログラミングスキルが必要である。売主オーナーは、モデルの作成や分析を信頼できる専門家に依頼し、これを基礎に、より有利なM&A戦略を立て、より高い価格、より高い成功率で売却活動を進めるべきである。
【Plus】財務モデルを作れる人=財務アドバイザー(FA)
M&Aアドバイザーやファイナンシャルアドバイザー(FA)と自称している人は多いが、その能力は及第点以下の場合も少なくない。本当のM&Aアドバイザーとは「誰もが納得できる財務モデルを構築できる人」つまり「モデルに影響するマクロ経済、金融環境、競争環境、事業、財務、税務、法務、労務、ITなどについて知見が深く、それらが企業価値にどのように影響するのかを金額的にシミュレーションできる人」のことを指す、と言っても過言ではない。「M&Aに関する助言の根拠を見つけることができる人」と言い換えることもできる。これができないなら有益な助言もできないのである。買主や専門家とのハードな交渉で建設的な提案ができ、また、非合理的な要求を合理的な根拠によって的確に反論できるには、そもそもモデル構築力がないと不可能である。
【Plus】欧米先進国でのM&A用の財務モデル
欧米投資銀行では、20代のジュニアクラスのうちに嫌というほど財務モデルを構築する修行期間があり、それからミドルクラス、シニアクラスになるにつれ、クライアント対応や交渉現場のコントロール、もしくは、クライアントの開拓や関係維持、案件創造(オリジネーション)といった職務内容になっていく。シニアは交渉の重要局面で登場する。即座に重要な数字を口から出せなければ、望ましい結果を出すことはできない。「話をしながら頭の中でモデルをカチャカチャ動かせる」ので、その現場でその瞬間に気の利いた発言ができ、その場にいる人を納得させられるのである。
【Plus】M&A案件はM&Aアドバイザーに、BB案件は一旦育てる、安売りOKな時だけBB業者に
BB案件(平凡で零細な会社のマッチング)をするBB業者は、財務モデルを構築しない(できないし、できるようになりたいとも思っていない)。なぜなら年買法という小学校算数で済ましたいからである。そのため、買主やDDプロバイダーから少し深い質問をされたら「売主本人に質問してくれ」としか返答できず、交渉現場で買主の誤解を即座に解消したり、建設的な議論を進められない。つまり、本来必要不可欠な職務上の能力を欠いているのである(現場は売主には見えないので文句を言う事もできないが)。皮肉なことに、これこそがBB業者の収益性の高さ、高額給与の源泉でもある。