◆補償とは、主にM&A取引実行後の買主への損害賠償のことを指す。M&A最終契約の中で定められ、M&A業界内でインデムと略されることが多い。現実的には、売主による誓約等の義務違反や表明保証違反が発覚した場合に発動することが大半(理屈上は、売主も損害を被りうるため、買主による補償もありうるが、優秀なM&Aアドバイザー(特にLA)を起用していないと難しい)。これは、売主から見れば実質的に「事後的な値引き」に相当するため、万全の対策をしておかねば、取り返しのつかないことになる、最重要なM&A最終契約条項の1つである。
◆枝葉を排し幹だけにすれば、M&A取引交渉とは「情報開示と条件合意」であり、M&A最終契約とは「取引内容(日付と価格)と、その実行条件(前提条件、表明保証、誓約)を定め、条件の充足状況に応じ、顛末(実行、解除、補償)を定めたもの」と整理できる。M&A取引で使用する契約書は英米法契約をベースにしてあるため、日本人に馴染みの薄い概念が登場するが、こういう構造である。
◆重要問題があるとしても、情報開示をしていれば価格に織り込んだり、途中で破談にすることが可能である。契約上の問題となるのは情報開示不足の場合である。実行後に重要問題の存在が発覚すると、取引の公平性を回復させるべく、売主に損害賠償させようというのが「補償」である。

◆巨額の補償となりがちなのは、以下である。
・環境汚染: 工場等の汚染が事後的に発覚。除去費用や罰金等が巨額となりうる。
・追徴税: 売主オーナー社長と顧問税理士の節税が脱税扱いとなり巨額の追徴税は発生。
・知的財産権: 使用技術等が他社知的財産権を侵害していることが発覚。巨額の損害賠償に。
・契約違反: 顧客や取引先との契約に違反していたことが発覚。契約相手から巨額の損害賠償。
・未払賃金等: 従業員に支払うべき賃金等(残業代や社保・労保等含む)に巨額の未払があることが発覚。
◆補償の本質は「投資は情報開示の範囲で自己責任。これを具体化するもの」である。売主も買主も不確実性を伴う時間の流れの中にいるから、将来損害が発生するかどうか正確にはわからない。その条件下で「責任分担を公平に行うべき」という思想が根底にある。M&A成約「後」に発生した損害の原因が、M&A成約「前」に生じていたら、さすがに新オーナーの責任ではない。前オーナーが責任を負うべきであろう。M&A対価と補償の組合せで、適切に責任分担していれば、理屈上問題はないはずだ。
◆この補償を最終契約に盛り込むなら、この補償に関係する損害をM&A対価に織り込んでいたらおかしいことになる。売主による「二重負担」になってしまう。つまり、ちゃんと潜在的な債務や偶発的な債務について、その内容だけでなく、インパクトと発生確率を想定できるだけの情報も含め、IMやDDで情報開示していれば、買主は株式価値に織り込んでいるべきだから「これを補償の対象にするのは、二重負担になるのでおかしい」と買主サイド(バイサイドLA)に正面から主張し、補償を外してもらう交渉をしやすい。透明な情報開示や合理的なバリュエーションは、こういう局面で非常に重要である。特に補償リスクが大きい場合、いい加減な情報開示で、いい加減なバリュエーションだと、買主の言いなりで妥協するか、破談にするしかない。
◆補償金額は、場合によっては巨額となり、いい加減な契約を締結すると、売却額を上回ることすらありうる。売主が天井を設けない限り、初めから天井はない。売主は慎重にM&Aアドバイザーと相談しながら、できるだけ不利にならないように契約内容を交渉すべきである。セルサイドLA(M&A弁護士)を起用していないと、こういう場面で酷い目に遭いかねない。
◆セルサイドLAが関与するM&A案件では、インデムは、通常、少額補償までは求めず、一定の閾値以上の損害が買主に発生した場合に発動するように設計する。また、その判定も、1件ごとか合計でか、などインデムの発動条件は交渉次第となる。さらに上限(天井)を定めたり、期限を設けることもできる。
【Plus】心配だからといって、売主本人が、一般的なM&Aプラクティスより細かくインデムの軽減交渉をすれば、いかにも「重大問題を隠している」かのように受け取られる。できるだけM&Aアドバイザー(通常はセルサイドFAとセルサイドLAの協力体制)を前に出し、インデム条項について詳細に交渉してもらうべきである。
【Plus】買主サイドの弁護士(バイサイドLA)は、本来、買主の正当な利益を守ることを目的としている。しかし、弁護士の営業姿勢次第では、売主の当然の利益を奪う線まで要求が侵入してくることも少なくない。「弁護士先生だからまともな事しか言わないはず」と思うのはM&Aの世界を知らなすぎる。弁護士はビジネスや数字が苦手な人も多く、理屈が滅茶苦茶なケースは意外と多い。
【Plus】売主にとって、さらに厳しい局面になるのは、売主の利益を守る意思も能力もないBB業者を雇った場合である。事実上、売主本人がバイサイド弁護士・バイサイド会計士と直接対峙し、不当な主張にも合理的に反論する必要がある。そうなると、先生がたの滅茶苦茶レベルがエスカレートするリスクもある。
【Plus】補償リスクが気になる売主は、基本的に何もしてくれないBB業者、特に両手報酬のM&A仲介に依頼しない方がよいだろう。そもそも、セルサイドとバイサイドに専門家が別れているのは、このような場面で売主や買主が「自らの利益を守ってもらうため」である。「両サイドに中立」と称していても、現実的に取引を成立させるには、いずれかに妥協を迫らねばならないシチュエーションは多い。この時にリピートを期待しにくい売主と、リピートを期待できる買主のどちらを守るのかについては、疑念の余地はない。しかもM&A仲介はメルカリと同じで「出会いの場を提供しただけ」という都合のよい言い訳で「問題になったらとっとと逃げる」人たちである。
【Plus】補償に関する最悪ケースを整理すればこうなる。
・いい加減な情報開示で買主バリュエーションの基礎が不明瞭(売主は楽だったし納得)
・売却価格は適正価格よりかなり安く(売主は素人でプロがそういうならそんなもんかと納得)
・セルサイドLAもいない、売主の味方はいない(売主は素人で危険回避のチャンスに気づきもしない)
・インデムを過剰に売主不利にする誘導をしておきながら(売主は素人でそんなもんかと納得)
・最低成功報酬は高額(立派なオフィスのM&A仲介だからそんなもんかと納得)
・成約(売主はようやく肩の荷が降りたと安心)
・約束では即座に連帯保証外しのはずが外れない(売主は色々難しいんだろうと納得)
・買主は対象企業からキャッシュをこっそり抜き取る(売主は気づかない)
・巨額の補償(通常の範囲を超えた損害まで、期限もなし、二重負担を何回も、天井もなし)
・対象企業の業績悪化、コベナンツ抵触で、銀行から保証人として一括弁済を要求される(売主はパニック)
・結果として、手取りマイナスで自己破産(売主はようやく気付く)
・対象企業は倒産し、従業員は離散(売主はとうとう激怒)
・M&A仲介に訴えるぞ!と言う(「担当だった彼はもう辞めてるから事情がわからない」「うちの仕事は成約時点で完了」「決定したあなたの自己責任」と言われ、売主は泣き寝入り)
さて、誰が不当に得をして、誰が不当に損をしているか、である。しばしば耳にするM&A仲介が関与した詐欺的な事件をマイルドに味付けしたもので、こうである。