今回は、M&Aの世界に巣食う不思議現象をご紹介したいと思います。
M&Aアノマリーと呼ばれる不思議現象です。
例外的な事象も頭に入れてから、最適な会社売却プランを練ってください。
目次
序論
M&A取引の意思決定者(売る人と買う人)は、高度に合理的な思考回路を持つがゆえに、
「会社を第三者に売れる状態まで、育て上げることができたビジネスの成功者」
または、
「会社を買えるほど資金力のある大きな会社で、重要な意思決定権を持つまでに出世したエグゼクティブ」
のはずです。
そのため、
「安く売ってしまう(M&A売り手)」
「高く買ってしまう(M&A買い手)」
「不適当な相手に売ってしまう(M&A売り手)」
「不適当な会社を買ってしまう(M&A買い手)」
「機密情報を競合に漏らしてしまう(M&A売り手)」
「買収して間もなく会社が崩壊してしまう(M&A買い手)」
「会社売却に失敗したことにも気づかない(M&A売り手)」
「買収失敗を他人(買収価格や投資銀行等)のせいにする(M&A買い手)」
などの望ましくない結末を迎えることは少なく、
上手にリスクを回避し、合理的な意思決定をして常に成功する人ばかりでは、
と思われるのではないでしょうか?
しかし、実際には多くのケースで、非合理的な意思決定が下され、
結果として、多くのケースでM&Aが失敗に終わっている(学者によるとM&Aの7-9割が失敗)と集計・分析されてます。
人間である以上、常に判断ミスが起こりうる、それは、スーパーエリートでも変わりないということです。
今回は、その人間の持つ不思議な行動パターンを研究した成果がM&A会社売却にどのような影響を与えるのかについてご紹介したいと思います。
逆転の発想をすれば、上手く活用することで、望外の成功を手にできるかもしれません。
M&Aアノマリーとは
アノマリーは「人間の基本的な感情やクセ等を土台として、一見すると不合理な結果に、後付けで意味を与えたもの」と言えるため、M&A交渉において上手く活用することで自己サイドを有利に導くことができるかもしれません。
さらに、これらを念頭に置きながら、会社売却前の準備に応用することで「改善すべき点を上手に改善し、治癒すべき点を上手に治癒してから、最適条件で売る」という、さらに有利な活用方法も見つかるかもしれません。
ちなみに、これによって、喜ぶのは、「思っていたよりも高く売れたセルサイド」だけではなく、「確度の高いM&Aによる成長機会を手に入れたバイサイド」も含まれます。
M&A市場においても、この不思議現象(アノマリー)がしばしば観察されます。
大きいM&A案件であっても、小さいM&A案件であっても、です。
(補足)欲望と恐怖、自己保存プログラム
具体的なM&Aアノマリーの紹介の前に、もう少し周辺のご説明を加えます。
人間を始めとする生物が、自己(自種)保存を最重要目的としてプログラムされている点に、異論を持つ方は少ないと思います。
有名なアブラハム・マズローの人間の欲求理論も、裏を返せば、自己保存が保証されている安全度に応じた、追加的欲求の発生システムと捉えることができます。
自己保存を確保するため、生物は「欲望」と「恐怖」もプログラムされていて、重要な意思決定も、たいていこの2つが何らかの作用をした結果であると考えられます。
よくあるのが、「欲望」が強すぎて、実現不可能な目標を立てて、結局売れずに無駄なコストを負担し、情報漏洩しただけに終わる。又は、有名な会社を買収をしたという世間の評判がほしくなって高値掴みをする、買収自体は成功したものの状況把握も済まないうちに短期間で数字を作ろうとして事業が痛む、というパターンです。しかし、まだましです。チャレンジはしているからです。失敗は成功の素。「欲望」を否定してはM&Aどころか事業経営でも成功するわけがありません。欲望・野望OKなのです。
より頻発し、より切実なのが、「恐怖(売れなかったら?批判されたら?)」を回避したいという人の心の弱さに付け込まれ、安売り・ズレ売りしてしまう。又は、M&A失敗責任者の烙印、サラリーマンの汚点を回避したいので、良好なM&A案件を見逃すパターンです。セルサイドが感じる「恐怖」には「自社を隅々厳しくチェックされ減点ポイントを見つけられる」「従業員を残して1人で逃げたと後ろ指を指される」「身売りするのは敗北者と友人や仲間に思われる」等が含まれます。バイサイドが感じる「恐怖」は「株式市場でマイナス評価を受ける」「社内で評価が下がる」「自分の出世が終わり退職金グレードが頭打ちになる」「自分のキャリアに汚点が付き転職マーケットで評価が下がる」等でしょう。こちらの方が厄介です。特に、失敗の烙印効果が強力かつ永続する日本社会では「恐怖」こそが大問題ではないでしょうか。
M&Aアノマリーの上位概念である「欲望・恐怖の理論」をふまえた上で、M&Aアノマリーに接すると、腹落ちしやすく、応用も利かせやすいと思います。
前置きが長くなりましたが、具体的なM&Aアノマリーの紹介に移ります。
M&Aアノマリーの例
希少性バイアス
絵画のように、この世に2つとない品は、その希少性に価値を感じる人にだけ、大きな価値を感じさせます。
M&Aにおいても同様で、すべてのバイサイド候補が同じように希少性に価値を感じるとは限らないものの、一部のバイサイド候補だけは、対象会社事業の希少性に非常に大きな魅力を感じる場合があります。
ただし、希少性をプラス評価してもらう前提として、セルサイドがバイサイドに対し「希少性が価値を持つものであること」を丁寧に説明(情報開示)することが不可欠です。
絵画は存在している時点で希少性をアピールできますが、事業の希少性は外部から観察しただけでは適切に伝わらないケースが多いからです。よほど有名な会社を売るケース以外では、その希少性は、まだ外部者に認知されていないので、ないのと同じだからです。
また、絵画のような固定的な財では、希少性による価値の上方修正効果のみを考えればよい一方、M&A=事業体のような流動的な財においては、希少性が価値の上方修正効果だけでなく下方修正効果も及ぼす場合がある点は、注意を払う必要があります。
つまり、ユニークな会社を売却する場合、下手な売り方をすると失敗しやすい、諸刃の剣の性質を内包しているというわけです。
例えば、ある対象会社(売り手企業)に強い希少性がある場合、あるバイサイド候補にとっては、自分の経営手法を対象会社に注入したくても、それがスムーズに進まない(反発されやすい)リスク、希少性が逆輸入されてバイサイド候補の歯車が狂うリスク等を危惧する可能性があるからです。
このような事態に陥らないための方策は、慎重なバイサイド候補選び(バラマキ禁止)と適切な情報開示(適切かつ十分なInformation Memorandum等)となります。希少性バイアスがプラスに働くであろうバイサイド候補を選ぶべきであるとともに、対象会社の希少性と(バイサイドしか知りえない)バイサイドが有する経営資源との相乗効果(シナジー効果)について、確度高く、適切に評価してもらえるように、セルサイドは、あらゆる可能性に備えた対象企業に関する情報を、適切に開示する必要があるわけです。
自信過剰バイアス
M&A時の過大評価(高値掴み)の背景に、バイサイドの自信過剰バイアスが確認されるケースがあります。
自信過剰バイアスとは、対象会社(売り手企業)を経営する予定のバイサイド内の経営者が自身の経営能力を過大評価することで、M&Aによる株式取得対価等を過大に支払ってしまう現象を指します。
この自信過剰バイアスとしてよく紹介されるケースは、対象会社(売り手企業)が上場大企業のケースで、TOBによる買収手続きの際、買収対価とTOB公表前の株価の差であるプレミアムが、シナジー効果以上となって、バイサイドの買収取引の利益が上場株式市場利回り(少数株主利回り)水準まで落ち込んでしまうケース、つまり、自分の経営能力の結果であるシナジー効果を過大評価してしまい(自信過剰)、過大なプレミアムを上乗せしたTOB価格で株式と買付してしまうようなケースです。
一般に、日本の組織は、一旦形成された評価や見通しについて、表立って反論することを好まない共同体的な文化、遠慮や忖度の文化が根付いていると言われています。そのため、上席者である意思決定者が一旦下した方針が、対象会社の経営に自信過剰になっていたとしても、なかなか自律的に修正されにくいと言われています。
多くのM&A関係者にとって、自信過剰バイアスは、海外大企業を買収するケースや、国内の上場大企業をTOBで買収するといった例外的なケースで確認できる例外的事象と言えます。石橋をいつまで叩いていても、過去の延長線にしかなりません。ある意味、多少は自信過剰になっていなければ、「海外事業へ新たに打って出るため海外企業をM&Aで買収する」という基本的に正しい経営戦略も実行に移せません。そういう意味において、自信過剰バイアスを無差別に批判することは、危険とも言えるわけです。
さて、セルサイドの立場から言えば、「できるだけ対象会社の経営に自信を持ってくれるバイサイド」にM&A提案すべきなのは至極当然のことであり、より大きなシナジー効果が見込める先に売却することは日本経済にとっても望ましいことであるため、あくまでも「巨大企業バイサイドが、巨大M&A案件の検討に際し、自信過剰にならないように」という限定的な相手向けの戒めと捉えるべきでしょう。
セルサイドにとって重要なポイントは、圧倒的多数の「非上場の中堅中小企業をM&Aで売却するケース」において、自信過剰バイアスがあてはまるケースがあるのか、ないのか、です。
一般に、日本企業は、人口ピークアウト後、長らく「投資に消極的」、「内部留保をため込みすぎ」と政府から批判されており、昨今、「もっと積極的に投資せよ」、「M&A・人材・システム等の将来性のある投資を増やせ」という内容の税務改正等を通じたメッセージが送られているくらいなわけですから、そもそも自信過剰バイアスを心配する必要性は乏しく、むしろ自信不足バイアス(M&A後の経営に失敗した場合に備え、できるだけ安い価格でしか買収しない)の方が圧倒的に支配的であって、その中で、セルサイドとして「どうやって過少評価(安値売却)を避けるか」「どのような事前準備をしておくべきか」こそが重要課題と捉えるべきです。
当然のことながら、セルサイドとしては、M&A市場の中に存在する「対象会社の経営に深い自信を持ってくれるバイサイド候補」を探す努力は必要不可欠です。しかし、それ以上に、自信過剰が勘違い(誤解)の場合にだけ問題なわけですから、適切な情報開示や事前の改善・治癒の努力によって、バイサイドに「真の自信」を形成してもらう努力を怠ってはいけない、これこそがセルサイドが力を集中すべき領域と言えるでしょう(そのため弊社SCAは、セルサイド特化型FA+企業価値向上コンサルティングという2つのサービスを同時提供しています)。
その努力の対価が、想定していたよりも高い価格での売却成功、売却後の対象会社の力強い成長、となるわけです。
勝者の呪い(Winner’s Curse)
この勝者の呪い(Winner’s Curse)は、M&Aの世界で最も有名なアノマリーの1つです。
シンプルな説明としては、「競争入札になると、是が非でも買収したいバイサイド候補同士が競い合い、買収価格が高騰するので、結果として入札の勝者が、買収失敗という呪いを受ける」というものです。
これは、競争入札という交渉プロセスを採用するケースにしかあてはまりませんが、競争入札という交渉プロセスを採用せずとも、競争環境を取り入れることは可能であり、説明としては一部欠落している部分があります。
多くの競争入札の参加者は、大きな組織のトップエグゼクティブです。決して愚かな意思決定はしませんし、明らかに損をするなら、途中で入札を辞退するはずです。
本質的に、競争環境を通じたM&A交渉が、買収者(競争の勝者)に与える買収の失敗(呪い)が何かというと、次のようなメカニズムを通じて発生する過大な経済的負担となります。
- 単独の適正評価(M&Aバリュエーション上のフェアバリュー)が100億円のT社の全株式取得のため、B-1社とB-2社が同時に買収を検討。
- B-1社は、T社を買収できたら、単独シナジー効果によって、130億円の企業価値(+30億円)を実現できると見込んでいる。
- B-2社は、T社を買収できたら、単独シナジー効果によって、110億円の企業価値(+10億円)を実現できると見込んでいる。
- B-1社は、競合企業にT社を買収されると、競争上のダメージが生じ、▲20億円の負の競争効果が発生すると見込んでいる。
- B-2社は、競合企業にT社を買収されると、競争上のダメージが生じ、▲50億円の負の競争効果が発生すると見込んでいる。
このような場合、B-1社は150億円(130-20)、B-2社は160億円(110+50)が、それぞれにとっての損益分岐点(提示価格の上限)となります。
B-1社に奪われた場合の損失が非常に大きいB-2社が、最終的に160億円まで価格を吊り上げたうえでT社を買収するとします。
B-2社が目論見通り、+10億円の単独シナジー効果を実現でき、B-1社との競争上、50億円の負の競争効果を回避できて、ようやくB-2社にとっての損益分岐点になります。
しかし、そのように目論見通りにいくケースばかりではないため、結果として、M&Aの失敗(高値掴み)と分析されてしまうわけです。
これが、競争環境が生み出すM&Aアノマリー「勝者の呪い」のメカニズムです。
ところで、セルサイドの立場から見ると、シナジー効果は、バイサイド毎に異なり、バイサイドの内部情報が必要なので、予想しかできません。
すなわち、セルサイドとしては、できるだけ競争環境のある状態の中で、適切な情報開示をして、対象会社を最も有効活用する方法を、各バイサイド候補に真剣に検討してもらう努力をするだけです。つまり、バイサイドが高値掴みをしているのか判断できません。
また、「この勝者の呪いというM&Aアノマリーを、上手く活用すれば、会社を高く売れるのではないか?」と安易に考えるのも危険です。
よく「高く売りたいなら競争入札すべき」という人がいますが、次のようなことも頭に入れ、より現実的な方法で高みを目指すべきでしょう。
そもそも、競争入札が、高値掴みというM&A失敗の諸悪の根源であるという風潮は、かなり前から定着しており、巨大案件や海外案件でない限り、多くのバイサイド候補が「競争入札なら参加しない」となってしまいがちです。
前述の希少性の高い会社で、引く手あまたになることが即座に伝わる会社を売却するケース以外では、競争入札による売却プロセスは難しいと考えた方がよいわけです。
実際のところ、競争入札を採用したからといって、1,000億円くらいの規模がないと、上記のような過熱が発生しにくいのが実態でしょう。
しかし、セルサイドとしては、競争入札までの過熱競争にしないまでも、競争環境を上手にM&Aプロセスに盛り込む努力はすべきでしょう。
なぜなら、競争環境を含む適切な売却プロセスで売却しないと、勝者の呪いどころか、勝者丸儲けになりやすいのが、日本の中堅中小M&Aマーケットだからです。
例えば、売却しようと考えている会社の単独の適正評価が10億円(上記ケース100億円の1/10のサイズ)の場合、競争入札をしたとしても、勝者の呪いが発揮され16億円で売却できることは、まずありません(競争上のダメージがない、他に激安案件がころがっているため)。しかも、非上場オーナー企業の財務諸表は、節税等で実態がわかりにくく、修行を積んだM&Aバンカーが実態ベースに調整しない限り、平気で3億円や5億円で売りに出てしまいます。
つまり、多くの中堅中小企業のM&A会社売却においては、バイサイドへの情報開示によって、魅力を伝え、安心してもらい、単独の適正評価(10億円)で売却することを目標にする方が現実的です。
しかし、中堅中小企業のM&A会社売でも、勝者の呪いの活用を完全に諦める必要はないでしょう。常に例外はあるものです。
希少性、模倣困難性、持続性、そして外部経営資源との結合によるシナジー効果が巨大ならば、相手を選び、適切な情報開示をして、ハードに交渉すれば、10億円ではなく、20億円、30億円で売却できるケースも、ありえます。
つまり、M&A会社売却に実質的に失敗すると3億円で売却、大成功すると30億円で売却と、やり方1つで10倍の開きとなるわけです(弊社の成功事例でも10倍の差があったケースがあります※案件受託時の他のM&A仲介会社による想定売却可能額の10倍で売却成功)。
アンカリング
「人間は不確実なものに遭遇すると、周囲に手がかりを求める傾向がある」と言われています。
まず、M&Aバリュエーションは不確かなものであって、売上高や利益、総資産や純資産は、参考程度のものです。
赤字続きでも10億円以上で売却できるケースもあれば、売上成長・黒字なのに、誰も買ってくれないケースもあります。
DCF法(Discounted Cash Flow Method)が、論理的には最も正しい評価方法と言われていますが、ほんの少しだけ前提条件を変化させるだけで株式評価額が大きく変わってしまう問題点を排除しにくい株式価値評価手法とも言えます。前提条件は、事業環境とリンクし、日々変化するため、安定していません。経営者次第でも実績は大きく左右されます。規制、税制や金融市場も日々変化します。
そこで、バイサイド候補は、セルサイドFA(外資系投資銀行等)から提示された価格(希望条件)を検討の足掛かりにしたい、と考えます。
一方で、そのセルサイドFA(外資系投資銀行等)は、FA受注競争に勝ち残り、少しでも高く売りたいセルサイド(売り手)に、その能力を認められたからこそ、今現在、セルサイドFAとして就任しているわけで、職責上、立場上、当然のごとく、ギリギリ実現できそうな高めの希望条件を提示します。
「どうしても買いたい」と思ったバイサイドは、この適正価格よりも高めの希望条件に沿った価格で買収してしまうわけです。
しかし、ここでも忘れてはいけないのは、このような結末が起きるのは、海外巨大企業の売却案件に、外資系投資銀行等が、片手FAとして従事しているケース等、非常に稀なケースであるということです。
「高めの希望条件を提示すれば、高く売れやすい」という安易な発想は、身近なケースである中堅中小企業では当てはまりません。バイサイド候補から「高いから、いらない」と一蹴されて終了です。結局、大事なのは、「なぜ高めに見える価格でも、買うべきか、補ってあまりある魅力や安心を伝達する努力」です。
日本の巨大企業の役員としても、一生に一度あるかないか、という未曽有の大決断に迫られた際にだけ発生するM&Aアノマリーと整理しておくべきでしょう。
以上、代表的なM&Aアノマリーを4つご紹介してみました。
他にも、日本の中堅・中小M&A市場ならではの不思議現象はいくつもあります。
M&A交渉に通じたM&Aバンカーと相談して、有利な会社売却を進めてみてください。